ロスジェネのトークイベント参加しました!

「ロスジェネ」トークイベントに行ってまいりました。
正直、ここで書くのは勇気がいることですが―このイベントに行く際にほんとうに気が重く、足が進まなかったのです。

当初理由がさっぱりわかりませんでした。わがフリーターズフリーの関係者が二人も関わっているのに、応援したい気持ちもあるのに、なんでこうも足が動かないのだろう。早く行かなきゃ行けないのに、なんとも足が進まず一旦、喫茶店に飛び込み、ハーブティーで自律神経を整える感じ。

まるでこれは登校拒否、不登校みたいと思ったときにはっと気がついたのでした。「ロスジェネ」つまりはロストジェネレーション、同世代しか居ない空間というものにわたしはどこか怯え(だいたい怯えていることが多いのですが)を感じている、と。自分で自分に壁を作ってしまっている、と。


同世代だけの塊、団塊という言葉もそういう意味では怖く、そうして今私達が「ロスジェネ」と括られてもそれが怖い。そんなことを感じながら、入ったら第一部をしっかり聞き逃す時間でした。

さいわいありがたいことには、年齢は多少ばらけていました、よかった・・・だけど何が不安だったのかなど考えていたら、第二部において、赤木氏の著書ははからずも、若いものの根っこにある「世代間にまたがる不満(不安ではない)」をぶちかましてしまったこと、そうして「世代間闘争」ではなく「世代間の越境」をどのように実践するかということが語られました。

「敵」を見出すことがどのように「希望」という強い言葉へつながっていくか、あるいは「希望」という言葉が持つ強さは同時に、それが崩れたときに誰かが傷つく形となるからこそ希望を語るべきではないのか、ささいなことから実践していけばよいのかどうか・・・そんなことが話されていました(ちなみに、私は議事録・ノートまとめというのが苦手で、これも参加していたにもかかわらず「うろおぼえ」です。うろおぼえゆえに、誰がどう話したかをきちんと語れなくて申し訳ありません)。

さらに「危険な方向の話かも・・・」と逡巡しながら出た話題が「宗教」でした。

世界宗教(たとえばキリスト教)はまさに、「分配」を主眼としていたこと、同時に己の人生を引き受ける生き方とが同時にクローズアップしたこと、その二点が宗教の役割であるとすれば、どの宗教に入るということではなく、宗教的な問題の捉え方が必要であることをここで主張をしたいです。

現在においてさまざまな病における自助グループにその片鱗を見るのですが、その実践がもっと様々な形で広がり、経済的なネットワークにも幅を広げる必要があるでしょう。それはささやかなネット上での実践からはじめるということと、それほどかけ離れているようには思われません。むしろ、世界宗教の一側面である社会的な「分配」の機能と人生を引き受ける「倫理的」なものがあたかも切り離されて語られていることこそ、問題なのではないか。つまり「ささやかなところからはじめればいい」と言い放たれたときに、そのささやかなものを掴むその能力こそ、もっとも社会的なものであり、「分配」の実りではないだろうか、と。宗教の言葉が少ないということ(そうしてスピリチュアルブームとか癒しブームが自己受容の機能を補完したようでいて、全く違うどこかへ運び去ろうとすることも含めて)、不安定労働の問題と宗教(が提示する問題)を切り離して考えることは困難ではないか、と。

それにしても最後「お見合い」という話が、中途半端に終わったのが心残りでした。

つまり「結婚」というものが二人だけの(プラス子ども)の関係で進むのではなく、中間的な人が必要なのではないかということはある程度「真理」ではあります。しかし、正直、旧来の家族を作るというところで話が留まり、オルタナティブな家族という話には繋がらない印象がありました。お見合いして、義理があるからそのまま縁が続いてそれでいい、ということであれば、逆に言えば、そういうお見合いが成立するような社会状況を作り直せという話にはならないでしょうか。

「正社員」で働きましょう、正社員の枠を作りましょう、そういうことになるのではないでしょうか。いや、それが悪いというのではなく、もう無理だ、と私は率直に思います。つまり「お見合い話」云々は、ほんとうに「おしゃべり」というか空想話なのではないかと思ったのです。

確かに誰かと一緒に住めば家賃は浮く。しかし、「結婚」というものは男は正社員に、女は専業主婦に、という枠をつくり、またその枠に居ることでその役割をどこか演じさせる力を「結婚」は魔術のように持っているのではないか。正社員であることから降り、専業主婦であることからもおそらく降りる必然があることを、この非正規雇用の問題はあぶりだしてるのではないか。それは正社員であることや専業主婦であることが「悪い」ということではない。社会状況が変われば、その役割を変化させざるを得ない。問題は変化したあとに極端に生存の選択肢がみえなくなるところにあるのではないか。

つれづれに長くなりました。しかし、改めて、「言論空間」というものにほんとうに足を踏み入れるならば、ここで学んだことを、どのように実践するかが重要と思いましたので、ブログで書かせてもらいました。最後に、このイベントを企画した様々な縁の下の力持ちの方々、そして出演者の方々、ほんとうにお疲れ様でした、そうしてありがとうございました。わたしは「フリーターズフリー」というこの営みを通して「ロスジェネ」を応援できたらいいと思っております。(栗田)