フリーター/非正規雇用労働者ユニオンふくおかの小野さんの雇い止め

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「私」は、「私達」といっていいときがある。

―とりわけこの時代、「自己責任」という言葉はいうまでもなく、「わたし」という一人称が一番意識されるものかもしれない。仕事の上でも、私の責任と他人の責任を線引きし、どこまでが自分の役割なのかを見極めながら行動している人もいるにちがいない(と断言してみる。わたしじしんもこのような意識から逃れて生きてはいない)。そして責任をひっかぶらないようにしながら常に他人の領域を侵さないように、そして「私」の領域も侵されないように、息をつめて生きているかもしれない。

しかしこのように生きる小心な私にさえ、「私達」といっていいときがある。大いに、あるのだ。

既に労働基本法の中には労働者の権利を守る柱がいくつも存在している。これは学校でも習っている(はずだ)。そのひとつに団結権というものがある。

わたしはこの権利の歴史的背景や根拠に聡い人間ではない。学校では「労働者は弱い立場であるから、労働者を守る必要があるために、このような団結権を制定した」と習った覚えがあり、それをそのまま鵜呑みにしていた。
しかし、働いている人間は「私」は「私達」といっていい、いわねばならないときがある、いいうるときがある、最近そのように感じている。
単純に賃上げやベア要求のためだけではない(これらの運動も重要だ)。むしろ働くということが本質的には雇用者対被雇用者との一対一の関係だけでは成立していないという事実を、この労働者の団結という実践によって可視化できるからだ。そのような意味においてもこの「団結権」の意味は、深い。それはどのような労働であってもそうだ。塾の先生といういわば一見「一人親方」に見える職であっても、塾にはたいてい縁の下の力持ちの事務屋もいれば会計職もいる。ただ、そこに労働組合という目に見えたものがあるかないかは別として、だ。労働組合が今までの既存のものでは追いついていないからこそ、会社を、あるいは職種すら超える組合が存在しているわけだ。わたしたちはつながっている、つながってしまっている。そんな素朴な事実をこの組合達は示しているわけだ。
さて。パワハラをした相手に、労働組合を持って交渉しようとしたところ逆に「脅迫」であるとして訴えられたというこの事態に対し、「訴え」を起こした人々へのこみあげる違和はなんだろう。もちろんそれは単純に「団結権」というものをハナから無視した雇用者の無神経さもあるだろう。ただ「仕事」というものが雇用者と被雇用者との一対一の関係で済まされるという考えへの強烈な違和感が、わたしをしてこの文章を書かせたのだ。このできごとを広め、知ってもらうためにもこちらのブログに掲載させていただくこととします。

小野さん、どうぞまだまだ寒い冬です。お体ご自愛ください(栗田)。